プロ奴隷という言葉

 民主主義の基本理念からすれば、自分が選んだ政府である以上は余程理不尽な事がない限り従う必要がある。理不尽すぎるなら解任を求める事ができるので、これについて恭順者を奴隷と呼ぶのは相応しくない。何よりそもそも、奴隷は主人を選べないので民主主義国家において制度上、国民は政府の奴隷となりえないと言える。
 一方で反抗勢力についてだが、たしかに政府に不服従であれば独裁国家であろうと共産国家であろうと政府の奴隷にはなりえない。しかし古来から、これらの反抗運動には何者か中心人物が存在するのが一般的である。多くの場合それは、言い出しっぺや指導者や革命闘士や評議会と呼ばれる存在である。
 これらの任に付く人物は概ね民主的選挙による選出は行われず、カリスマ性等に基づく暗黙の了解によって指導的立場に着く。つまりは絶対王政や独裁体制と同一の組織構造を持つわけでだ。たとえそこまで極端ではなかったとしても、マルチ商法ねずみ講)的な親子関係に基づいた組織構造が構築されるだろう。
 このマルチ商法的組織構造において親を決めるのは、選挙ではなく実績に基づく昇格である。説得力のある言説や、何か周囲に認められるスゴイ行動でピラミッドを上り詰めるわけだ。そういった人物が居る一方で、何の活躍もしない活動員はいつまでたっても底辺のままである。
 要するに個人の資質が、そのままダイレクトに幹部と戦闘員を明確に区別する事になる。そして幹部が実名で先頭に立ってアジテーションを行って活動費を消費する一方で、運動員は匿名的立場(一山いくら)で個人的に支持者を広げる活動を行いつつ活動費を工面するわけだ。
 こうなってくると、もはや主人と奴隷の関係とも呼んでいいほどの階級格差である。つまり「プロ奴隷」とは、「プロ市民」内部における地位・階級において最下層に位置する「運動員」を示す呼称であるとしても違和感がない。むしろ、2chなどで吶喊してくる自称「活動家」である下級「運動員」こそが「プロ奴隷」と称されるべきではないだろうか。
 となると、対義語は「プロ幹部」あたりになるんだろうか?